花粉症とマスク不足について
もう何年も前から花粉症と診断されているので早めに耳鼻科に行こうと今日もう耳鼻科に行ってきた。
馴染みの先生ということもあり
「花粉関係?」と、あっさり聞いてくれて診てくれて処方箋も出してくれた。
「マスク不足だけど、出来ればしててね」
と先生が言っていた。
我が家では偶々モノを貯めるタイプの母が冬場に買っておいたマスクがまだ一月ほどあるからまあマスクもいつか買い足せばいいだろう、と思っていたけど現段階買えてない人もいるんだろうなぁ、と思う。
先生曰く、布のマスクを3つくらい洗いまわしつつ濡れたガーゼをちょい不快かもだけど中に入れると花粉をキャッチしてくれるからおすすめだよーとのこと。花粉の対策ならそれでもいいのかも。
兎に角、鼻が詰まると喉が荒れるタイプなので自分の体と反応するすぎ花粉の時期は嫌だなーと思う。もらった薬はきちんと飲もう……。
以上
行き先不安【新社会人】
研修でした。
普通に座学をした、面白い話だったし割と楽しく受けられました。
同じ仕事場の人たちとも割と話したり出来て雰囲気悪くなかったけど、4月からの事業があまりにもフワッとしてて不安になりました。
結局いくらお給料もらえるかとかハッキリまだ言われてないし、どんな感じで働くのかとか事業内容がまだ未定な所とか、良い部分も沢山あるはずなのにフワッとしたことばっかり目が入って不安が募る……。
とりあえず明日は実習だからもう寝ます、鼻水すごいしもう花粉かな?風邪が怖いので葛根湯飲んで寝ます。
やっと買えたポケモンでもっと遊びたいのにー!
以上
まだなってないのにもう社会人になりたくない話
4月から社会人になります、たぶん。
24歳、大学院卒、はじめての社会経験です。
これまでバイトとかはしてた(それぞれ三ヶ月くらいした、三箇所くらい)んですけど、普通に働くのはこれが初です。
中学に一ヶ月不登校をし、高校も一週間まるまる休むみたいな時期があった事もあり、
(わたし、まともに人と暮らせないのでは?)
と思っていたのですが大学、大学院となんかわからないが真面目に通うことができてしまいました。
多分選んだ学科が良かったのかもしれないけど(自分にあってたんだと思う、自分の特性と近い人が多かったので)、この先この偶々ラッキーで出来てた生活がちゃんとできるかわかんない過ぎて不安なのです。
すでに何度か研修に行ってて、その感じ大学あたりとおんなじ雰囲気を感じていて(平気かも?)と、思いつつ既に辞めなきゃならなくなった後のことをずっと考えています。
私多分だけど終わりが見えない事が恐ろしくて嫌になるタイプだから、自分で勝手に何年後には違う道を探そうかな?とか緩やかな期限を決めておいた方が精神的な健康に繋がりそうな気がしています……。
まあ、まだ働き出してないもいないんですけど。
おんなじような新社会人はきっと多いはず。
たぶん。
以上。
おばちゃんへ
日記のつもりで書く
おばちゃんが亡くなり数日が過ぎて今日初めて会いに行けた。納棺式で初めて涙が出たよ
泣くっていうのは難しい。
ひとつずつの作業は儀式だね。おばちゃんまたね、と言いたかったけれど声が出なかった。
「おばちゃん」って小さく行ったけど、言ったけれどわかんなかったかな?わかったよね。おばちゃんにはわかったよね。
不思議ね、寂しいけど、まだ良くわかりません
愛されてるな、おばちゃんは色んな人から。
おばちゃんが居なくなってしまった事もそうだけど、それで悲しんでいる人を見るのがとても悲しい。みんな悲しいのだと思うと私も悲しい。誰かが悲しむというのは誰かの心におばちゃんが住んでいるからだね、だからみんな悲しいのよ。
おばちゃんに挨拶して帰るとき、従兄弟もおじさんもみんな帰るから、おばちゃんが一人になるのが可愛そうになってしまった。一人で寝るなんて嫌よね。
明日は骨を拾いにいくね、不思議ね。
以上。
可視化できないけど多分有るもの
エッセイみたいなものが好きです。
エッセイと随筆の違いを調べたら、
随筆は あったことについていろいろ書く
エッセイは 自分の話をする
ということらしいです。違うかもしれんけど、私はそうなのかーと思った次第。
で、この前、前述の定義からすればエッセイと随筆どちらも入っているような本を買いました。
佐藤春夫さんの「退屈読本」という本です。上下巻に分かれていましたが偶々上巻だけ手に入ったのでチマチマと読んでいます。
「退屈読本」では、書評・日記というような随筆的要素と過去の思い出から類推する自己・家庭環境から見た自分の性格というエッセイ的要素がどちらも含まれています。
日記もなんていうか普通の話が書いてあって、そんな怒るかいな、とか良かったねぇ、みたいな他人のブログ見る感があり楽しかったのですが、私は佐藤春夫さんの小学校時代(多分小学生だったと思う)の「友達アンケート」の話が気に入っています。
お医者さんの息子でちょっと周りとは馴染みきれてなかった春夫少年が、仲良しの友達をアンケートに書いてというちょっとしたアクティビティの時間に悩む、みたいなエピソードです。「仲良しって言われてもなー」と、彼はとりあえずよく話す方の周りの席の子を書いて出すんです。
で、休み時間みんな、「だれかいたのー?」とか「貴方を書いたよ!」とかソワソワ楽しくおしゃべりしだす。ちょっと蚊帳の外な春夫少年は後ろの席の気さくな子に「ねえ、君はだれの名前を書いた?」と聞かれて、「君だよ」と答える。
後ろの席の子はちょっと黙ってから申し訳なさそうに、「君のこと書き忘れてた、ごめんね。だって僕たくさん友達がいるから、書ききれなかったよ」と答えます。それが初めて友情を感じた時だった、と佐藤春夫さんが振り返る。という文。
友だちについての原稿を頼まれてこの話を書こうとしてやめたらしいですけど、その「友だちと思ってる相手が自分を友だちと思ってくれてなかったら怖いからそんな話したくない」っていうのはメチャクチャ分かるなーと思いました。
友情は可視化できないじゃないですか。友情は実体があるものじゃない。例えば遊びに誘ってくれるとか、映画に誘ったら快諾してくれるとか、楽しいSNSの投稿にいつもいいねしてくれるとか、そういう「友情」のアイコンみたいなものだけが見えるだけでそれが本当に相手にとっても「友情」のアイコン足り得てるかはわからない。相手にとってはそれだけでは友情に達してないとか、達してるアイコンだけど親切心とか単純に利害一致からなのかもとか。
友情とは実体がなく、でもアイコンという形で可視化することできるがそれも難しいわけです。
佐藤春夫さんはコンプレックスが強いタイプだったんじゃないかな。と思う。私もそうなので。どうなんでしょうか。でも、とっても家族から(ご両親から)愛情を受けた方みたいだったので、振り返って文にまとめられるんだろうな。トラウマ的な体験は言語化する事で再定義されて普通の記憶になっていくって杉浦さん(2003)*1が書いています。だからね、文書という形で言葉にできてるからそういうトラウマというかコンプレックスはちょっと克服ずみなものなのかもしれないなーと思いました。
以上。
参考文献
*1 杉浦 健(2003)人はなぜ変われない(1)--トラウマ記憶とPTSD その治療と回復 ,近畿大学教育論叢,14,33-46
豆のサラダ
蒸し大豆が今は軽いビニルの中に入って買える時代が来ているのです。
フジッコの蒸し大豆をよく買います。たくさん入って100円くらい。
一人で食べるので缶詰だと一度開けた後の管理が苦手なのでビニルパッケージに入ってるのは便利で良いです。
これは朝ごはん。フジッコさんがおススメしている豆のサラダのレシピ(パッケージ裏に載っている)でサラダを作りました。
材料
豆30g
きゅうり 3センチくらい
人参 厚み5ミリくらい
ハム 一枚
マヨ 3くるり
プロセスチーズ 半分
塩胡椒 ざらり
これを混ぜます。野菜はコリコリくらいに切って入れます。
なんだろう、コールスローに近い感じだけど豆がほこほことしていて美味いですよ。
他のメニューは、
みかん
烏龍茶
きんぴら
冷凍しといた鯖汁お好み焼き
です。
鯖缶の汁って絶対旨味がすごいんだろうね、と思い捨てるに捨てられずお好み焼きのダシにしたところめちゃくちゃ美味でしたのでおススメです。薄力粉、卵、キャベツ、鯖缶の汁を目分量で入れ混ぜ焼くだけ。
朝ごはんはあんまり食べないけど余裕ある日はたまに食べてもいいな、と思いました。
さて、修論提出まで後三週間ほど、ラストスパートかけて頑張ろう。
以上。
スカイツリーがすき
やっぱり住むんならスカイツリーが見えるところに住みたいなー。
この写真は住吉駅付近です。
都営新宿線ユーザーの友達と会うから半蔵門線も通ってるこの駅でちょい会ってご飯食べました。
神保町に行って書泉グランデへ。
私鉄好きな私に彼女がちょっと付き合ってくれて嬉しかったな。欲しい本何も考えず下調べなしに行ったので眺めるくらいで。今度はちゃとリサーチして一人で本を漁りに来ようと決意しました。あと、大学の図書館で堀口大學の本借りようとしたら「行方不明ですね」と司書さんに言われてガッカリしてるので堀口大學の本も神保町で探したいね。普通の本屋さんでも買えそうだけど、折角ならば初版本とか買ってみるのをいつかやりたいし。
でも申し訳なくてすぐまた住吉へ。今度はファミレスでデザート食べておしゃべりして夜になったその時の写真です。
川があり、とうきょうスカイツリーがある。私は川が好きなのでここいいなーと思ったのでした。荒川の方が好きだけど。
以上。