可視化できないけど多分有るもの
エッセイみたいなものが好きです。
エッセイと随筆の違いを調べたら、
随筆は あったことについていろいろ書く
エッセイは 自分の話をする
ということらしいです。違うかもしれんけど、私はそうなのかーと思った次第。
で、この前、前述の定義からすればエッセイと随筆どちらも入っているような本を買いました。
佐藤春夫さんの「退屈読本」という本です。上下巻に分かれていましたが偶々上巻だけ手に入ったのでチマチマと読んでいます。
「退屈読本」では、書評・日記というような随筆的要素と過去の思い出から類推する自己・家庭環境から見た自分の性格というエッセイ的要素がどちらも含まれています。
日記もなんていうか普通の話が書いてあって、そんな怒るかいな、とか良かったねぇ、みたいな他人のブログ見る感があり楽しかったのですが、私は佐藤春夫さんの小学校時代(多分小学生だったと思う)の「友達アンケート」の話が気に入っています。
お医者さんの息子でちょっと周りとは馴染みきれてなかった春夫少年が、仲良しの友達をアンケートに書いてというちょっとしたアクティビティの時間に悩む、みたいなエピソードです。「仲良しって言われてもなー」と、彼はとりあえずよく話す方の周りの席の子を書いて出すんです。
で、休み時間みんな、「だれかいたのー?」とか「貴方を書いたよ!」とかソワソワ楽しくおしゃべりしだす。ちょっと蚊帳の外な春夫少年は後ろの席の気さくな子に「ねえ、君はだれの名前を書いた?」と聞かれて、「君だよ」と答える。
後ろの席の子はちょっと黙ってから申し訳なさそうに、「君のこと書き忘れてた、ごめんね。だって僕たくさん友達がいるから、書ききれなかったよ」と答えます。それが初めて友情を感じた時だった、と佐藤春夫さんが振り返る。という文。
友だちについての原稿を頼まれてこの話を書こうとしてやめたらしいですけど、その「友だちと思ってる相手が自分を友だちと思ってくれてなかったら怖いからそんな話したくない」っていうのはメチャクチャ分かるなーと思いました。
友情は可視化できないじゃないですか。友情は実体があるものじゃない。例えば遊びに誘ってくれるとか、映画に誘ったら快諾してくれるとか、楽しいSNSの投稿にいつもいいねしてくれるとか、そういう「友情」のアイコンみたいなものだけが見えるだけでそれが本当に相手にとっても「友情」のアイコン足り得てるかはわからない。相手にとってはそれだけでは友情に達してないとか、達してるアイコンだけど親切心とか単純に利害一致からなのかもとか。
友情とは実体がなく、でもアイコンという形で可視化することできるがそれも難しいわけです。
佐藤春夫さんはコンプレックスが強いタイプだったんじゃないかな。と思う。私もそうなので。どうなんでしょうか。でも、とっても家族から(ご両親から)愛情を受けた方みたいだったので、振り返って文にまとめられるんだろうな。トラウマ的な体験は言語化する事で再定義されて普通の記憶になっていくって杉浦さん(2003)*1が書いています。だからね、文書という形で言葉にできてるからそういうトラウマというかコンプレックスはちょっと克服ずみなものなのかもしれないなーと思いました。
以上。
参考文献
*1 杉浦 健(2003)人はなぜ変われない(1)--トラウマ記憶とPTSD その治療と回復 ,近畿大学教育論叢,14,33-46